No.42 カーメン・マクレエ
夭逝したビリー・ホリデイを別格として扱った場合に、三大女性ジャズ・シンガーは誰かという問いに、「エラ、サラ、カーメン」と答えるジャズ・ファンは多いはずです。そう、エラ・フィッツ・ジェラルド、サラ・ヴォーンと並び称されるジャズ・ヴォーカルの女王、それがカーメン・マクレエです。そして、カーメンは、語るような歌い口で歌詞の世界を伝える第一人者でした。
カーメン・マクレエは1920年にニューヨークのハーレムでジャマイカ系移民の両親の元に生まれました。幼少からピアノと歌を学び、初めはピアニストとして活動を開始します。すると、憧れのビリー・ホリデイと知り合うチャンスが訪れ、さらには16歳の時に彼女に曲を提供するという栄誉に浴します。
1944年からベニー・カーター楽団のピアニストとなり、次にカウント・ベイシー楽団のピアニスト兼シンガーとして活躍します。私生活では1946年にドラマーのケニー・クラークと結婚。その年に加入したデュークの息子マーサー・エリントンの楽団ではカーメン・クラークとして活動していました。しかし、このクラークとの結婚生活は、1955年に解消しています。
さて、カーメンは、1954年にデッカからレコード・デビューを果たし、歌手として本格的にスタートを切ります。この時すでに30歳を超えていましたが、《ダウンビート》誌の批評家投票で新人歌手部門の1位に選ばれ、注目を集めていきます。そして、1957年にはアメリカ・ショウビズ界の大御所サミー・デイヴィスJr.との共演アルバムをリリースするなど、一気にトップ・スターへの階段を駆け上がっていくのです。レイ・ブライアントなどが中心となったピアノ・トリオをバックに歌うのを得意として、時に弾き語りも交えながら、シンプルな編成でじっくりと歌を聴かせる本格派として名を馳せていきました。デッカには1957年まで在籍し『アフター・グロウ』などの名盤を残します。次にキャップへ移籍し、ここでも名盤『ブック・オブ・バラーズ』を吹き込みます。
その後、1960年代はCBSやアトランティック、1970年代はブルーノート、1980年代に入るとコンコードなど、いくつものレーベルを渡り歩きながら、カーメンは名唱を刻んでいきます。ところが、長年に亘っての喫煙の影響で1980年代後半からは声が荒れ、ついには肺気腫を患い1991年にカーメンは歌手生活に幕を引かざるを得なくなります。呼吸器疾患の合併症が原因で彼女がこの世を去ったのは、それから約3年後の1994年11月10日のことでした。
(ワーナー)


1972年にロサンゼルスのクラブ『ドンテ』で行ったライヴの実況盤。タイトル通りポップスのヒット曲を含むアメリカン・スタンダードの数々を取り上げている。バックにはジョー・パスも参加。